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ギブソンは、「アフォーダンス」という観察者と環境の関係の全く新しい概念を生みだしました(アフォーダンス(affordance)は、機能という言葉の意味を現代的に捉え直す上で非常に重要なので別ページで説明します)。 ギブソンは空間について次のように述べています。 空間の概念をもたない限り、我々は周囲の世界を知覚できないであろうとする説は意味のないことである。事実は全く逆である。我々は足下の地面と空をみない限り、何も無い空間を想像することはできないであろう。空間は神話であり、幻影であって、また幾何学者のための作りごとである。カント(Kant)が述べているような「概念なき知覚は盲目である」という独断を捨て去ることに読者が同意するならば、深刻な理論的混乱、まさしくこの泥沼は涸れることであろう。J.J.ギブソン(古崎敬他訳)、『生態学的視覚論』、サイエンス社、1985、p.4 上では「ギブソンは空間について次のように述べています」と書きましたが、ギブソンは「空間」という認識を否定しているかのように読めます。ギブソンは視覚認知学者ですから、「見ること」あるいは「見えること」をとても重視し、概念的な空間の捉え方によって、見えない空気に大きな意味を持たせることに危険を感じたのではないかと思われます。目を閉じ、耳を塞ぎ、鼻をつまんでください。そこに空間はありますか、ありませんか。 ここで、老子の話を思い出してください。老子は、「無」(空間)があるからこそ「形有るもの」が役に立つと説きました。また、別の箇所で「有と無は互いの比較から生まれる」ということも述べています。ギブソンの考え方にしたがえば、空間とは、形有るものの存在の結果として存在するといえます。これは建築家やデザイナーの立場にとても近いのです。柱を立て、床や壁をはらなければ、つまり形有るものを存在させなければ、建築空間は生まれません。空や雲しか見えない空中を指さして、そこに建築空間があると主張できますか。言葉遊びの世界、この言い方が不適切ならば、概念的思惟の世界では「建築空間がある」と言えるかも知れませんが、肉体的な現実として建築空間があると言い張ることはできないでしょう。 さて、ギブソンは、地上環境の構成を次のように捉えています。
つまり、人間の目で見ているのは、物質の表面だととらえるのです。 ここでクイズです:あなたは今、建物の中にいますか、それとも、外にいますか?この画面を見ているということは、青空の下でモバイルコンピューティングしているような特殊な場合をのぞいて、大半の人が「中にいる」と答えるでしょう。でも本当にそうですか。 あなたがいるのは、壁と床と天井で囲まれた空気の中にいるのであって、コンクリートの壁に埋め込まれているのでも、柱の代わりに梁を支えて立っているのでもありませんね。もし、そうであればあなたは建物と一体化してその一部分になっている訳だから、部分と全体の関係からして「建物の中にいる」と胸を張って言うことができるでしょう。このように「建物の中」とは、壁や柱の中身のことではないのですか。あなたの体と比較してみましょう。あなたの脳や内臓、血管、筋肉は、身体の内部にあります。これを否定する人はいませんね。では、あなたが食べた物はあなたの中にありますか、外にありますか。空気〜口〜食道〜胃〜腸〜肛門〜空気と、あなたの消化器官は、外の空気とつながっています。ドーナツの輪と同じです(数学ではトーラスと呼びます)。ドーナツの輪の内側の部分は、ドーナツの中ですか、外ですか。 ここで言いたいのは、空間を考える上で重要なのは、観察者が見ている表面と観察者自身との関係であるということです。構造とか設備などを考えなければ、人間にとっての建築空間とは、人間が見ている物で成り立っているわけですから、空間をデザインするということは物質表面を適切に配置することに他ならないのです。ギブソン的な地上環境の構成の捉え方は、このようにとても重要な意味をもっているのです。
ちょっと余談さて、上記のように考えれば、<囲まれ感>の度合いによって、壁と天井と床で囲まれた部分は「内部にいる」と言えるでしょうし、塀が一枚だけ見えるような場所にいれば「外部にいる」と言えるでしょう。日本の縁側空間をよく内部と外部の「中間領域」と言ったりしますが、上記のように考えればそのような呼び分けは必要なく、囲まれ感の強弱によってそれぞれの部位を呼び分けるような方法が可能になるでしょう。もし内部〜中間領域〜外部と部位を分けると、次には内部〜内部的中間領域〜中間領域〜外部的中間領域〜外部との部位分けが始まり、どんどん細分化されていくことになります。つまり、分けてはいけないものを分けてはいけないのです。
.........きりがないですね。 このようなことに関しては、ファジー理論のメンバーシップ関数の考え方を借りて、囲まれ度0とか、囲まれ度0.8とか、囲まれ度1というように表してやればもうちょっとすっきりするでしょうね。ただし囲まれ度というのは多分に主観的なことだろうから、決めること自体がナンセンスかもしれません。建築にはつねに個別解があるのです。 |
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