ル・コルビュジエ
Le Corbusier(1887-1966)

portrait近代のもっとも重要な建築家の一人で、建築作品・著作ともに、近現代の建築界に大きな影響を与えました。


以下、N.ペヴスナー『世界建築辞典』(鈴木博之監訳、鹿島出版会)より転載。
ル・コルビュジエ、シャルル‐エドワール(ジャンヌレ)
Le Corbusier, Charles-Edouart Geanneret(1887-1966)

ル・コルビュジエはスイス国内のフランス語地域のラ・ショー・ド・フォンに生まれた。1908-9年の間、パリのペレの事務所に勤務した後、ベルリンのベーレンスの事務所で短期間働いた。ル・コルビュジエは20世紀において、もっとも影響力のあるはなばなしい建築家で、形態の創案の豊かさという点で唯一ピカソと比肩しうる。しかし彼はまた、自らの理想に対し、当惑させられる程、絶え間のない、見事なセールスマンでもあった。彼の思想や作品を理解するのに、彼がある意味でレジェに比較できる、抽象あるいは、半抽象画家であるとするのは疑いようもなく適切なことである。

ル・コルビュジエの初期の作品のうちで、三つの傾向が継続的に相互作用しあいながら展開するのを見ることができる。一つは集合住宅の大量生産である(ドミノ、1914-5、シトローアンの住宅、1921、失敗に終わったペサックの集合住宅、1925)。第二は都市計画である。ル・コルビュジエは、画一化された高層ビルの中心を公園の中に対称形に配置し、その間に低層の建物と複雑な交通路を配した総合計画の数々を発表した。それらは、1901年のガルニエの工業都市より、現実的でないものであったが、もっと眩惑的なものであった(ヴィラ・コンタンポラン、1922:ヴォアザン計画、1925:ヴィラ・ラディユーズ、1935:アルジェ計画、1930)。ル・コルビュジエの初期の思想の第三の傾向は、白く、キュビスト的で、全部、あるいは部分的にピロティに乗り、互いに空間が貫入する部屋をもった新しいタイプの個人住宅への傾倒である。もっとも初期のものは、ヴォークレッソンの住宅である(1922)。多くの作品がこれに続くが、その中には建物を貫通して木がはえている、1925年パリ博覧会の、エスプリ・ヌーヴォー館も含まれる。もっとも刺激的で後世に影響を与えた住宅は、おそらくガルシュ(1927)とポワシー(1929-31)の住宅であろう。同時に並行して、ル・コルビュジエはいくつかの大建築の設計も行った。たとえばジュネーヴの国際連盟(1927年、実現されず)、モスクワのソヴィエト・パレス(1928)等である。そのデザインは、いたるところで進歩的な建築家に大きな影響を与えた。実際に建設された大建築のうち、二つが言及されねばならないだろう。長大なカーテン・ウォールをもったパリの救世軍本部(1929年起工)そして、不揃いの荒石仕上げの壁を普通の白い精製コンクリート面と対比させた、パリ学生都市のスイス学生会館(1930-2)である。1936年には、ル・コルビュジエは.コスタ、ニーマイヤー、ライディ(1909-64)等によってのちに実現されたブラジル教育省の新しい建物についてアドヴァイスを与えるために、リオ・デ・ジャネイロに招かれた。彼らの寄与は、コルビュジエ自身のそれとほとんど区別できない。1947年にル・コルビュジエは、ニューヨーク国連本部を計画することになった建築家グループの一人であった。そして事務局棟や、両端に頑丈な窓のない壁をもつ、薄いガラスの板の造形は、本質的には彼の設計である。

しかしながら、同時に、ル・コルビュジエはそれまで自分の理念を普及させる手段として用いてきた合理的な平坦なガラスー金属のスタイルを放棄しはじめていた。そして新しい反―合理的で激しく彫刻的、攻撃的なスタイルに転向したが、これはすぐに他に影響を与えるものだった。その最初の例は、重い露出されたコンクリート部材と幻想的な屋上の形状をもつマルセイユのユニテである(1947-52)。プロポーションはモデュロールとよばれるル・コルビュジエが発明し、主唱した複雑なシステムによって算定された。ユニテはつぎのナント(1953-5)のもの、三番目のベルリンのもの(インターバウ展のために建設された、1956-8)に引き継がれた。ル・コルビュジエの反合理的なスタイルの作品のうちでもっとも革命的なものは、ベルフォール付近のロンシャンにある巡礼者のための教会(1950-4)である。これは、サイロのような白い塔、マッシュルームの頂のような茶色のコンクリートの屋根、任意の場所に、任意の形で壁に穿たれた小さな窓を持つ、卓越して表現的な作品である。住宅では、新しいスタイルはジャウル邸(1954-6)に現われる。その浅いコンクリートのトンネル・ヴォールトは、直ちに国際的な常套句となった。さらに後年、1958年ブリュッセル万国博のフィリップス館は双曲放物線面の屋根を使ったもので、これは、ノースカロライナ州のローリーに建設されたスタジアム(1950-3)においてM.ノヴィツキーと技術者のディートリッヒによって開拓された形態である。チャンディガールにおいてル・コルビュジエは、都市計画をたて、きわめて力強い裁判所と行政官庁を建設した(1951-6)。その影響は日本においてもっとも強いことがわかる。同時に彼は、アーメダバッドにいくつかの住宅を設計したが(1954-6)、それらはチャンディガールの建物同様、きわめて重く、ずんぐりしたコンクリートの部材を使っている。1957年にはル・コルビュジエは、東京に西洋美術館を設計し、ラ・トゥーレットにドミニコ修道院を設計した(1957-60)が、冷酷で堅い巨大な力の固まりである。彼の最後の重要な建築はハーヴァード大学のカーペンター・アート・センターである。